「善悪不二」といい、罰をあたえる主がなければ、道徳がまもられぬ

 

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「天」との関係において心のあり方を問う。

「善悪の知識の木の果実」)を食べて正理に. 背いた

(「人ナラバ人ノ後生ヲ扶ルコトハ曾以叶ベカラズ)、第二に、「善悪不二」といい、罰をあたえる主がなければ、道徳がまもられぬという。

『妙貞問答』三巻は、上巻(『仏法之次第略抜書』として今日伝わるもの)に仏教批判し、中巻に儒教神道を斥けて、下巻にキリスト教教義を説く。仏教批判の要点は、第一に、釈迦阿弥陀は人間であり、人間は人間を救い得ないということ(「人ナラバ人ノ後生ヲ扶ルコトハ曾以叶ベカラズ)、第二に、「善悪不二」といい、罰をあたえる主がなければ、道徳がまもられぬということ(「現在ノ作法モ、上ニ恐ルベキ主ヲ知ラザレバ、道ノ道タルベキ様モナシ」)である。

天下の善悪は舌三寸の囀(さへづ)るにある

不干斎ハビアンの書

児島宮の祖先不干斎

罰をあたえる主がなければ、道徳がまもられぬという。不干斎

儒道については、天地万物の起源に触れ、万物には初めがあり、初めは自ら生じるはずがない(「他ノ力ニヨラザレバ生ジサフラハヌゾ」)として、陰陽から万物が生じるという説明は、陰陽が何から生じたかを説明しない、と論じる(「其天地陰陽ハ何クヨリ生ジタルト思イ玉フヤ」

自分の悪を羞じ他人の悪を憎む羞悪の心、目上にへりくだり譲る辞譲の心、正しく善悪の判断を下せる是非の心という、四つの善なるものへの傾向性ないし萌芽であるとされる。これは四端と呼ばれ、この四端は良心とも呼ばれた。この心は天から生まれつき与えられたものなので、尽心すなわち心をきわめ尽せば、天がいかなるものかがわかるともいう。

性善説(せいぜんせつ)とは、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教流派の中心概念。人の本性に関する考察は古今東西行われてきたが、「性善説」ということばは儒家のひとり孟子に由来する。